先日、ベンヤミンが1930年代に著した芸術批評についてコメントしました。
私はそのとき、自分自身の立場を大して明確にはしていなかったのですが、では私ならどのようにベンヤミンに対してアプローチするのか/したいのか、ということについて、今回ノートを書いておきます。
参考にした本はこれです。野村修が1994年に訳した本文も再録されています。
■多木浩二,2002『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波書店.
以下、本文です。
記録装置が私たちの生活に対してどのような影響を与えるのか、という問いについて考察をすすめるため、私は『複製技術時代の芸術作品』の注10の部分に着目してみたいと思う。
ベンヤミンは複製技術時代の芸術作品について言及するにあたり、〈仮象〉と〈遊戯〉という二つの概念を分けている。プラトン・アリストテレス以来の〈ミメーシス〉(模倣)の議論と、ベンヤミンが説くアウラとの関係について理論的考察を行っているのが注10である。そしてそれを芸術の歴史と関連づけたとき「芸術の諸作品において仮象が衰微し、アウラが凋落するにともなって、巨大な遊戯空間が獲得される」という洞察が得られるのだとベンヤミンは説く(Benjamin 2002: 194)。そのうち、もっとも広い遊戯空間を獲得したものが映画である、と。
しかし、ここでいう彼の「遊戯空間」とは何なのだろうか。「遊戯空間」があるなら「仮象空間」もあるのか――というような、あまり生産的とはいえない問いはさておくとしても、そこでいわれる「遊戯空間」の出現が、映画におけるアウラの消失とどのような関連があるのだろう。ベンヤミンが本文で述べた映画の特徴と「遊戯空間」はどのように重なるのか?
本文中でベンヤミンが映画について述べたことは多岐にわたる。しかし一つ私が着目してみたいのは、演劇と映画の関係について述べたくだりである。先ほどの注10は、まさに映画俳優に関する逸話(迫真に迫る演技を俳優にさせるために、背後で銃弾を一発ぶっ放す。そこで本当に驚いた顔をした俳優のシーンをフィルムに用いるという事例)について述べた直後に加えられたものである。10節と11節は、映画のモンタージュ的な特性について述べて、いかに俳優の演技が「一回性」から(すなわち〈アウラ〉から)遠ざけられるかを、制作委員会、撮影における細切れのシーン、最後のフィルム編集という作業といった点から述べる。ベンヤミンは、俳優とアウラの関係を、次のようにたとえる。
誰でも知っているように、多くの箇所は幾度も撮り直しをされる。たとえば、救いをもとめる叫びひとつが、さまざまに形を変えて撮影され、その上でそれらのなかから、フィルム編集者がひとつ選択する。スポーツにたとえるなら、いわばそれらのうちの最高記録を、かれが認定する。したがって、スタジオで演じられる事象は、これと似た現実の事象とは、大いに異なっている。その相違はちょうど、競技場での円盤の投擲が、誰かを殺そうとしての同じ場所での同じ距離へ向けての同じ円盤の投擲と、異なるのに等しい。前者は一種の実験的営為だろうが、後者は違う。(Benjamin 2002: 160)
これは、俳優の演技が、撮影装置に向けられることで「一回性」を剥奪されるという指摘にとどまらない。俳優は一回性を剥奪されるだけでなく、フィルム編集者の手のひらの上で、何度も迫真の演技を行った結果を審査されることになる。そこで俳優は、「最高の演技」を選び取るための単なる素材になる。撮影装置は記録の保存という事実を保証する装置であり、したがってそこで収められた一回性の出来事は、一回性の出来事ではなく、何度も記録として再現されることから逃れられない。それだけでなく、それは、記録を入手した他者によって、何度でも編集される可能性を常に残す。
このベンヤミンの指摘を受けて、私は、複製技術時代とは、「編集技術を持ち、編集する素材に対する最終的な審級を握る誰か」に芸術作品の判断が委譲されることから逃れられない時代なのではないかと考えた。(ベンヤミンがすでに本文で述べたことでもあるかもしれないが、私の言葉に置き換えると、そのような言い方になった)。記録装置の素材を用いて、その素材をさらに操作することが可能である特定の人物のことを私はここで「編集者」と呼んでいる。そしてそのような人物による、断片的な情報の組み替えと再統合が行われることを私は「編集」と呼ぶ。あえてここで私が「複製」ではなく「編集」と言い換えたことの意義は、複製されたものに対してさらに人的介入を行うという要素が、複製技術を用いた芸術作品にあることをここで敢えて強調したいためである。
これだけでも十分に勇み足かもしれないが、さらにここで一歩進めてみよう。そのような時代において、私たちは制作においてだけでなく、作品の受容においても「編集者」となるのではないか。たとえば、ピアノ曲のモンタージュについて強い関心を示し、生演奏を頑なに拒否していたグレン・グールドのピアノ曲を、さらにiPod Shuffleで長時間聞き流すことは、聞き手にとってグレン・グールドがどのように受容されていると言えるのだろうか。個人的な好みを言えば、私はシャッフル機能というものが好きではないし、ライヴの生の感覚というものを人並みに信用している方である。しかし、グレンの演奏会に対する強い批判精神を音楽記録を通じて受容しながら、さらにアルバムという記録装置におけるわずかな一回性を担保していたであろう「意図された演奏記録の順序」すら突き崩すものであると考えれば、シャッフル機能については、これほどラディカルな編集もないといえる(ここにおいて、グールドの思想は体現されると同時に、一部歪曲されている。もしグールドが曲の順番について音楽的コンセプトを念頭に置いていたのだとすれば、であるが)。そのラディカルさを素朴に否定することは、音楽の受容について公正に考えようとした場合、非常に困難な試みであるといえるのではないか。
また、映画視聴においても、一回限りの受容が本当に不可能なのか、再考を迫る例が考えられる。非常に粗悪な喩えになるが、季刊『ステレオサウンド』で絶賛されるような高性能真空管アンプと最先端のプラズマTV画面で、キューブリック『地獄の黙示録』を観ながらシングルモルトウイスキーをストレート・ノーチェイサーで味わう……というような体験そのものは、ある種の人間にしか選びようのない(人によっては、選びたいとも思わない)体験かもしれない。
だが、そのような周囲の環境に拘束された体験、つまり、そのようなスノビズムに充ち満ちた環境下でキューブリック『地獄の黙示録』を鑑賞するということは、そこに至るまでの環境を編集したそのスノッブ自身によって意図的にかたちづくられた環境であり、そのような体験を誰もが何度も共有できるわけではない(経済的なレヴェルにおいても、嗜好的なレヴェルにおいても、非常に困難なセッティングである)。したがって、その行為全体を見た場合、そこに「一回性」がないとは言い切れなくなってくる。そこにはベンヤミンのアウラ概念では捉え切れない、もう少し複雑な美的判断基準が入交じってくるように思われる。あるいは単にもっと素朴なもので、しかし単に言葉にするほどのものでもないだけかもしれないが。
例を2つほど挙げたが、私がここで指摘したかったのは、「受容体験すら、テクノロジーや周囲の環境構築、さらには個人の意志の組み替えによって編集可能である」という現代的な事態についてである。かつては音楽受容、絵画受容、その他の建築・彫刻など西洋的な意味での芸術全体が、〈礼拝的価値〉を帯びており、必然的に一回性を備えていた。しかし、私たちはその凋落を指摘したベンヤミンの1930年代から遠く離れて、いまや「ライフログ」という言葉が秋葉原連続殺人事件をめぐる解釈項のひとつとして用いられる時代、面識のない人々の体験や作品を擬似リアルタイムで身近に共感できる時代をともに生きている。
それはつまるところ、要るもの、要らないもの、好ましいもの、好ましくないものを「記録」の水準で組み合わせたり、削除できたりすることが、誰にでも可能になっている時代であるということだ。アーキテクチャがそれを保証している。アーキテクチャによって、われわれは過去と現在を記録し、その記録を「編集」し、誰かの編集したアウトプットを飽きることなく受容し続けてている。大塚英志が予言した「飽和」は、その環境となるアーキテクチャを提供する資本の革新によって何度も延期されているようにも見える。
このような事態の中で、ベンヤミンが〈アウラ〉という概念を通じて述べたかった体験の「一回性」は、どこに見出すことができるのだろうか。見出せたとして、複製技術時代を通過した私たちにとって、その「一回性」はどこまで価値あるものと見なせるのか。まったく価値がないという意見が提示された場合、それに対する反論はどのようなものになるのか。また、反論する必要がないとして、「一回性」とは別の次元で、私たちの美学は再構築されるのか。もし再構築されるとして、先に述べた「遊戯空間」は、新しい芸術の受容理論の中でどのような位置を占めるのか。
ここまで考えたところで、私の考えは一度停滞し